ごみを27品目分別する市に住んで思うこと。移住者としての意見

ごみを27品目分別する市に住んで思うこと。移住者としての意見

今月、市報しぶしの特集でゴミ分別について書かせていただきました。

今回特集を書こうと思ったのは、うわーっとこの記事を書いたことがきっかけでした。

この記事では、ごみ分別についての移住者としての個人的な意見を書いています。(取材に伺う前、3月時点の記事内容です。)

だいぶ重めのボリューミーな記事ですが、移住者としての目線に興味を持たれた方はどうぞ!

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先日、テレビ番組である市の「ゴミの袋が有料化する」というニュースをやっていた。

番組の中では、ゴミを燃やして処理するための焼却場を紹介し、

有料化することについて一般市民に質問していた。「ゴミ袋の有料化は痛いですね。」と大人が答えていた。

「家庭あたり、年間3,000円ほどの出費になりますね。できるだけ出費を減らすためにも、ゴミを減らす啓発活動をしています。」

と担当者は語る。

今までなら、何も違和感を感じずに見ていただろう番組に、志布志市民になって初めて違和感を感じた。

違和感の正体を考えていくと、自分の中で2つ結論が出た。

一つ目は、「ゴミを分別することは圧倒的に正義だと思う」ということ。

二つ目は、「ゴミを分別する」ということは、移住のメリットにもなりうるということ。

異論もあるかもしれないが、一移住者の意見として志布志の方に聞いてもらえたら嬉しい。

私の知らず知らずのうちに凝り固まっていた頭を打つように、「志布志の当たり前」を教えてくれた高校生への感謝を込めて、一生懸命伝えます。

ゴミ分別日本一の市「志布志市」に住んで私の当たり前が変わったこと、誇りに思ってください。

1.ゴミを分別することの善悪について。

私が感じた「違和感」の正体。志布志の子どもたち「ゴミの分別は面倒ではない」

冒頭にお伝えしたテレビ番組を見て感じた「違和感」について。

真っ先に思い出したのは、昨年の今頃志布志高校の子どもたちと話した日のことだった。

その時私は、志布志高校の子どもたちと、「志布志の困りごと白書」を作るという高大連携のプロジェクトに参加させてもらっていた。

困りごとを聞くために、真っ先に思いついた質問がこれだ。

「ごみの分別について、どう思うかな?面倒とか思ったりする?」

と私が問うと、高校生は

「別に、何とも思わない。慣れたら普通。」

と答えた。

その時に、私はカルチャーショックを受けた。

産まれたときから「ゴミを分別する」市に住んでいる子どもたちからすると、

分別することは面倒でも何でもなく、「当たり前のこと」でしかないのだ。

カルチャーショックを受けるとともに、自分が少し恥ずかしくなった。

なぜなら、子どもたちが当たり前と思っている「分別」を、私は少なからず面倒くさいと思っていたから。

そのことに気づいたからだ。

志布志の子どもたちの当たり前

違和感の正体は、志布志の子どもたちが「分別は当たり前」と話す一方、

ゴミの分別をしないことが前提で話が進み、年間3,000円のゴミ費用が高いと話す大人が当たり前にいる。

志布志の子どもたちにとっては分別して資源としているものが、他の市では違う。ほとんどのゴミを燃やしているのだ。

ここで起こる違和感は、生活して要らないものを全てゴミと認識している大人と、

当たり前のように資源と一般ごみに分ける子どもがいるということ。

この2人の違いが生まれた経緯については、善悪ではない。「当たり前」が違うということだけだ。

私も、ゴミの分別が当たり前でない市で育ち、志布志に来るまでゴミはゴミとしての認識しかなかった。

志布志に来た時、ゴミをわざわざ分別し、「捨てるものを分けなきゃいけない」ことが面倒くさいと思っていた。

しかし、志布志の子どもたちからすると分別して資源として捨てることは、当たり前のこととして毎日、普通にやっているのである。

 

実際に分けて捨ててみると、埋め立てゴミである「一般ごみ」は本当に少ないことが分かり、実際に志布志市では約75%ものゴミは分別されている。

そう思うと、ゴミの分別を推進すること・リサイクルをすることは圧倒的に正義ではないかと思うのだ。

産みの苦しみは大きくあるとは思うが、その土地で生まれてくる子どもたちの中では分別することは当たり前。

他の市に住んでいる人が、普通にゴミを捨てるように、子どもたちは普通に分別をしているのだ。

 

ただ、産みの苦しみは大きいと思う。

今までゴミを分別しないで捨てることができていた大人に、分別の仕方を教え、理解を得ることには相当な努力が必要だと思う。

分別することが当たり前じゃない人にそれを説くことは、とても労力がいるし、受け入れる市民もストレスがかかる。

ただ、何も知らずに産まれてくる子どもたちのことを考えると、大人として頑張ろうと思ったのだ。

「これは、ゴミじゃなくて資源なんだよ」と当たり前に教えれる大人になりたい。

 

2.移住とは、その土地の当たり前に身を置くことなのではないか

東京で苦しいと思った「当たり前」の正体

さて、話は変わって、「移住とは何か」というテーマについて考える。

東京にいたときに苦しい・嫌だと思っていた正体は、「環境」だと思っていたが、違うことに気づいた。

満員電車や、家賃の高さ、人が多いということ。そういうものが「合わなかった」のかと思っていた。

ゴミについて考えたことをきっかけに、「当たり前」とするものが地域で違うことに気づくと、

私が苦しいと思っていた東京での暮らしは、私の考えている「幸せ」が当たり前じゃなかったことが原因だったことが分かった。

例えば、東京で暮らしていた時を思い出す。

22時まで仕事をがんばって帰っても、電車に人は大勢いる。23時でも24時でもそうだ。

朝、ちょっと早起きをして、いつもより早い6時に出ても、ネクタイを締めて出勤する大人はたくさんいる。

仕事を「頑張る」大人は、生活している限りおそらく四六時中、どんな時も目に入ってくる。

自分も頑張っている。けど、周りも頑張っている。それが目に見えて実感する。

だから、自分も頑張る。

子どもは、保育園に預けて働く。旦那に相当な収入がないと、専業主婦で東京で暮らすなんて、なかなかできない。

男の人は、付き合いの飲み会も接待の飲み会も多く、次の人事によっては転勤も当たり前。

これが、私から見た東京の暮らしの「当たり前」だった。

自分より頑張っている人は目に見えてたくさんいて、自分はどうなのか。感じることが辛かったように思う。

さらに、私が田舎で親に育ててもらったように、毎日お父さんが家に帰ってきて、家族で食卓を囲みご飯を食べることは当たり前ではなく、相当な努力が必要なのかな、と思った。

それに気付いたときに、私が子どもを育てる場所として東京を選ぼうと思えなかった。

仕事は楽しかったし、やりがいもあった。

けれど、私の理想の家庭は、少なくとも私の実家では当たり前だった「毎日料理を作って食卓を囲む」暮らしだった。

つまり、移住とは何か。

能動的な移住に求めるのは、今の「当たり前」から脱却し、移住先の土地に流れている「当たり前」に身を置くことだと思う。

移住をすると、少なくとも周りの人が当たり前と思っていることは大きく変わるのだ。

もちろん、流されずにどこにいても「自分は自分」と貫く人もいると思うが、

移住すると少なからず自分の身の回りのマジョリティの概念が変わり、空気として漂っている概念が違う。

「当たり前」が変わることで、自分の中の理想の暮らしが馴染むこともあれば、馴染まないこともあるだろう。

移住とは、「その土地の当たり前」に身を投じることなのではないかと思う。

 

3.当たり前に身を投じることが「移住」とする場合、ゴミの分別はメリットになり得る

今回伝えたい内容の、一番の肝はここだ。

先にお伝えしたのは、

➀当たり前にゴミの分別をする地域では、子どもにとっては分別は当たり前。それなら、分別は正義だと思う

➁「移住」ということは、その土地の当たり前に身を投じること。

ということ。

 

次に考えるのは、産まれてくる子どもをどの「当たり前」で育てたいかということも、移住の指標の一つになるのではないか、という提案だ。

 

話は変わって、移住推進についてゴミの分別はどういう捉え方になるか、考えよう。

通常、ゴミをなんでも一緒くたにして捨てる地域から志布志への移住を考えた場合、

大人は必ずといっていいほど「面倒くさい」と思うだろう。

それが、どんなに環境に良かったとしても、覚えることが増え、毎日やるべきことが増えるのだ。

面倒くさいに違いはない。

移住についても、「市単位では日本一のリサイクル率を誇る市です!」と大声を出していったほうがいいのか、と聞かれると悩む。

圧倒的に「面倒くさい」に違いはないからだ。

 

ここで、前の話に戻る。

志布志は、➀当たり前にゴミの分別をする地域では、子どもにとっては分別は当たり前。

ということを実証しているのだ。

つまり、子どもたちはゴミをストレスなく分別できる。面倒くさいと思うのは、他の概念を知っている大人。

自分の子どもにどうなってほしいかを考えた場合、今志布志に住んで思うことは

「ゴミを分ければ資源ということを知っている大人」

になってほしいと思うのだ。

私はそれが、正義だと思うから。

それを知っていたからと言って、何かのスキルになるわけでもなく、自分の時間が圧迫されるかもしれない。

けれど、ゴミを分別して資源にするか、燃やすかであれば資源にした方がいいじゃないか。

それも、産まれてくる子どもたちは、面倒と思わずに、当たり前に分別するのだ。

分別したゴミをちゃんと資源化している市に住んでいるからこそ、子どもたちに「分ければ資源だね」と当たり前に言える。

それは、志布志市に住む大きなメリットなのではないかと思うのだ。

子どもから、分別したゴミはどうなるの?と聞かれたら、一緒にリサイクルセンターに行こう。

自分たちが分別したゴミが生まれ変わる様子を見て、毎日の分別が誇らしくなることだろう。

そういう市に住んでいてよかった、とその時また、改めて思うことだろう。

まとめ

「子どもたちにとって分別は当たり前である」ということは、志布志市・大崎町がリサイクルを推進して見つけた大きな大きな成果。

世界レベルで見ても、志布志市・大崎町は分別の先進地なのではないかと思う。

パプアニューギニア、ソロモン、フィジー、バヌアツ、ミクロネシア、パラオ、マーシャル諸島、サモア、トンガ、スリランカ…

様々な国の視察が、志布志に来る。

ただ、視察における問題点は「ゴミをしっかり捨てる」文化にない国が多いということ。

見学についていったこともあるが、さすがに当たり前がかけ離れすぎている。ゴミに人がつぶされて亡くなった国に、志布志のモデルは先進的すぎると思うのだ。

志布志のモデルを使おうと思った場合、ハードルはかなり高い。ゴミを当たり前に決まった場所に捨てる日本人ですら、面倒くさいと思ってしまうのだ。

そう思うと、今本当に訴えるべきは日本なのではないかと思う。

焼却炉大国日本…アメリカが168カ所、フランスが100カ所の焼却炉を持つのに対し、日本は1,893カ所。ゴミ排出量も世界トップを誇る。

しかしながら、少子高齢化で人口が少なくなる日本に、すべての焼却炉を維持できるのか疑問である。

おそらく、焼却炉を使わなくなる市も出てくるであろう。

そんな日本に、堂々と「リサイクル率No.1の市です」とPRし、志布志メソッドを声を大にして言うべきなのではないか。

志布志で「ゴミ分別体験移住ツアー」などあってもいいかもしれない。

家で子どもたちが当たり前のようにゴミを洗い、乾かし、捨てる様子にびっくりする人も少なからずいるはずなのだ。

「人は、ゴミを当たり前のこととして分別できることが分かりました!」

これは、とてつもなく大きな大きな発見である。

「リサイクルできるならしたほうがいい。けれど面倒くさい」という矛盾を打破する鍵が、志布志市にある。

どうか、志布志の方には誇りに思ってほしい。ゴミを分別し、資源として利用することは、圧倒的に尊いことだと思う。

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